脳がわかれば やさしくなれる その1

6月に本室で開催した第1回「脳科学講座(全4回)」でも軽く触れましたが
視覚と視力の違いを認識するだけで 脳の担っている役割・機能と個人の特性との関係 その一端を 知ることができます

目の働き全体をさして「視覚」といいます
視力はその中の1つです
視力とは 物の形や大きさ等を 見分ける能力のことです
一般的に 目が良い、目が悪いというときには 視力自体をさしていることが多いようです
しかし それ以外にも 視覚にはあります
見える範囲や広さを感じ取る「視野」や 光の強さや濃淡を感じ取る「光覚」 
さらに 立体的に物を見ることができる「両眼視」に 色を見分ける能力が「色覚」 
そして 遠方から近い物まで見るための「調整力」まで含むのが「視覚」ということになります
つまり 数式で表すと 視力 < 視覚 ということになりますね

他者にやさしくなれるかどうか 脳科学からの提案は こうです。
視力という個人差は 一定範囲においては 測定可能です
つまり 視力が弱い人、見えない人の「困り」は 具体的な場面において 比較的 理解しやすいということです
困りがわかりやすいということは 何が困りかが具体的にわかるため 困りのある人へのサポートの方法や内容も わかりやすいということになります
他者の困りに 気づき それをサポートする人のことを 人間界では「やさしい」と表現し 他者の困りに気づいた にも関わらず 困っていると知りながら 意図的にサポートしない人のことを「意地悪」と表現します
しかも この意地悪は 本格的な意地悪でないとできません
人の困りをあざ笑える 冷たい そして積極的な意地悪です
いっぽう 困りに気づかなかったということもありますよね
これは ケースバイケースになってしまいますが 自分に甘く 他者に厳しいという誹りは 免れないところだと思います
簡単に言うと 定型発達症候群に入っているなら 気づけよ っていう話ですな

話を 戻します

「視覚」となると「視力」とは 話が 違ってきます
まず 視覚は 視力のように 人と比較したり 一定の基準で測定したりすることが とても困難です(視覚などは一定のケースは測れますが 全てではありません)

例えば 狭い部屋に入り 視覚的情報量を最少にすることでしか「ものごとに集中できない」というレベルの人から
人で溢れる雑踏の中 しかも その真ん中に居て
視覚的情報量がものすごく多くても「全然 集中できる」というレベルの人まで
そのSpectrum(変動する不確かな範囲や連続体の意味)は 人間の数ほど 存在している可能性さえ否定できません
だって 視覚量を測定して 個人差の範囲を明確にする方法などないのですからそうなりますよね

ということは
同時に入ってくる視覚量として ここまではOKで ここからは NGね ということは 誰にも決めることなどできない ということいになるはずです

先日 来談した高校生が こう話してくれました
「入学式でかなり気分が悪くなったけど 式の後に 自分の教室に入ったときには もう無理って思った。だって 私の席 真ん中の列の真ん中だった。前に立ってる担任 あとは 全員知らない生徒 その後ろには 親たち。し~ん とした教室の前の黒板を見ると 先輩達からの歓迎のことばとイラストたくさん書かれていて それが 担任の先生の背景がみたいに飛び出してて そればかりか 中央黒板の両サイドの黒板まで びっしりしきつめられた文字とイラスト。いろんな物が 頭の中でぐるぐる回り出して 吐きそうになった。汗びっしょりになりながら お昼まで耐えて やっと帰れた。次の日 こわごわ教室まで入ったら 整然と着席していた前日とは全然違ってた。座ってる人 立ってる人 動いている人 が いろんな声でお喋りしていた。昨日の倍の人数はいる!って感じたら もう怖くて 自分の席まで 行けなかった。お母さんに来て貰って そのまま帰って あれから一度も 登校してない。親と担任と保健室の先生が話して 今日 ここに 来た。」
そして そんなふうに話してくれたあと
「先生も 『どうやったら 教室に戻れるか いっしょに考えよう!』 っていうの?」って質問されました

・・・つづく・・・